覚醒瞑想が深まると悟りを開く脳に変化してくれます
覚醒瞑想トランス状態がある一線を越えると、今まで気づかなかったことを発見し、迷いだらけの心へ確固たる芯が確立されます。
理性の世界では到達不可能なことが、覚醒瞑想トランスの中で知恵を超えた偉大な深い意識の中で、実感として真理が見えたり、つかむことができます。
悟りを開くことに似た直感がほとばしる状態です。

これが瞑想をやる人が多く求めてきた『瞑想の果実』です。
迷いと悩みだらけの心が晴れ、すがすがしい感覚の中で真理を見る。
この生臭坊主の私でさえ、その瞬間に立ち会えた時、生命の躍動と感動に身が震えたものです。
感動だけ感覚だけの素晴らしき世界でした。

これが瞑想をやる人が多く求めてきた『瞑想の果実』です。
迷いと悩みだらけの心が晴れ、すがすがしい感覚の中で真理を見る。
この生臭坊主の私でさえ、その瞬間に立ち会えた時、生命の躍動と感動に身が震えたものです。
感動だけ感覚だけの素晴らしき世界でした。
そうです。
迷いは考えても解決しないどころか、ますます混迷を深めさせてしまいます。
しかし考えることをやめることは至難の業です。
そこに瞑想や座禅といったものが、解決の糸口となると期待をよせ、修行に励むわけです。
しかし、迷いだらけの人が瞑想を行うこと自体、迷っている己を再認識するしかない結果に終わる可能性が高いのです。
迷いは考えても解決しないどころか、ますます混迷を深めさせてしまいます。
しかし考えることをやめることは至難の業です。
そこに瞑想や座禅といったものが、解決の糸口となると期待をよせ、修行に励むわけです。
しかし、迷いだらけの人が瞑想を行うこと自体、迷っている己を再認識するしかない結果に終わる可能性が高いのです。
瞑想や座禅が迷いを深める可能性
中途半端な瞑想は迷いを深めると私は思います。だから瞑想の危険性を訴える人がいるのも、無理からぬ事だと思うのです。
私達は様々なしがらみの中で生きています。
生まれた瞬間からしがらみは始まり、成長とともに増えていきます。
そのなかでどんどん己を見失い、迷いが増えていく。
これが悩みです。
迷うから悩む、悩むから迷う。
この繰り返しで、精神的な健康が損なわれていきます。
ひいては肉体まで害されていくのです。
誰もが悩みたくないのに、悩みにとらわれる。
悩むと考え、それが迷いにつながる。
普通はこの中でもがくしかないのです。
その不安を解消するために人は理性を使い、恐怖もなくそうとしました。
迷うから悩む、悩むから迷う。
この繰り返しで、精神的な健康が損なわれていきます。
ひいては肉体まで害されていくのです。
誰もが悩みたくないのに、悩みにとらわれる。
悩むと考え、それが迷いにつながる。
普通はこの中でもがくしかないのです。
宗教の役割は終わりつつあります
昔より、迷いや不安を断ち切るために宗教がありました。
何かにすがらなくては生きていけないのが人間なのかもしれません。
ましてや科学の発達していない昔の時代、非科学的迷信がたくさんありました。
何かにすがらなくては生きていけないのが人間なのかもしれません。
ましてや科学の発達していない昔の時代、非科学的迷信がたくさんありました。
それらは人間と自然の密接なつながりを演出してくれました。
そこに宗教の価値が大きく光り輝いていました。
今は違います。
今は違います。
今の時代、迷信のほとんどが否定されています。
オカルトの世界に追いやられ、迷信を信じる人は変人の烙印を押される世の中です。
科学技術の発達で、闇への不安・恐怖、未知への不安感が人間から無くなって行きました。
しかし、残った不安感があります。科学技術の発達で、闇への不安・恐怖、未知への不安感が人間から無くなって行きました。
生きていたら生じる不安や迷いは理性では解決できません
霊的なものへの不安がなくなっていたと同時に、現代人はその不安というエネルギーを自分自身へと向けてしまったのです。その不安を解消するために人は理性を使い、恐怖もなくそうとしました。
理性は科学技術を発達させ、非科学的なものを否定することで人は安心感を得ることに成功したのです。
だからでしょうか、理性の力で、己の中の不安を払拭できると思ってしまいました。
だからでしょうか、理性の力で、己の中の不安を払拭できると思ってしまいました。
しかし、ご存知のように自分の感情を思い通りにできないのが理性です。
理性を使えば使うほど迷いが生まれ、ますます混迷を深めてしまったのが現代人なのだと思います。
理性を使えば使うほど迷いが生まれ、ますます混迷を深めてしまったのが現代人なのだと思います。
いまもアマゾンやジャングルで原始的生活をしている部族は、文明人よりも悩みはないでしょう。
あったとしても、食生活や病気、霊的なものへの悩みです。
理性を発達させた人が、座禅や瞑想をやろうとしてもうまくいかないのはしょうがないことです。
理性を発達させた人が、座禅や瞑想をやろうとしてもうまくいかないのはしょうがないことです。
あまりに理性に頼りすぎているから、それを使わないことなど、感覚的にわからないのですから。
それにどれだけ時分が理性を使っているかなど、普通は分からないし考えません。
が、瞑想をするとなると、はじめて理性とは?ということに向き合わざるを得なくなります。
理性を超えられるかが瞑想を極める方法が、瞑想をするとなると、はじめて理性とは?ということに向き合わざるを得なくなります。
瞑想を深めるコツは、簡単にいえば、理性を使わないことです。
考えて考えて悩んで悩んだ末に、一種の悟りに到達できると考えているならば、瞑想をやればやるほど迷いを拾い上げてしまうと思います。
考えて考えて悩んで悩んだ末に、一種の悟りに到達できると考えているならば、瞑想をやればやるほど迷いを拾い上げてしまうと思います。
悩んでもいいとおもいます。
しかし悩んだ末に、理性がいかに無駄なものか気づくならば、です。
しかし悩んだ末に、理性がいかに無駄なものか気づくならば、です。
だからこそ、悩んで悩んだ末に悟ることができたとなるのです。
理性を超えた圧倒的な精神状態ではないと、迷いを断ち切る気づきや悟りはやってこないのです。
理性を超えた圧倒的な精神状態ではないと、迷いを断ち切る気づきや悟りはやってこないのです。
私はまさにそれを体験しました。
考えて得られる答えなどたいしたものではないと実感しました。
真の気づきとは、理性をはるかに飛び越えた一瞬の感覚の世界なのだと教えられました。
真の気づきとは、理性をはるかに飛び越えた一瞬の感覚の世界なのだと教えられました。
迷いが晴れるのは、一瞬の気づきがもたらしてくれます。
私も迷いの製造機なほどの坊主の風上にも置けぬ人間でした。
いまは難しいことも考えず、起きたら起きたで悠然と構えていられ、すごく割り切りが良くなりました。
いまは難しいことも考えず、起きたら起きたで悠然と構えていられ、すごく割り切りが良くなりました。
だからすごく楽ですし、月並みな表現ですが毎日が楽しみです。
深い覚醒瞑想を体感すると自分も変わるし人も変えることができます
坊主の仕事や瞑想に疑念を抱いていた時もありましたが、いまではこの覚醒瞑想トランス状態に入ることができたという一点だけでも、やっていてよかったと思っています。
それに私の言葉に耳と傾ける人の反応もすごく良くなったと実感しております。
それは感覚の世界を深く掘り下げることができたからです。
そうなるためには理性で何とかしようとする無駄をたくさん経てきました。
そうなるためには理性で何とかしようとする無駄をたくさん経てきました。
だから、無駄をたくさんしてください。
ショートカットで深い瞑想トランス状態になろうなんて思わないでください。
ショートカットで深い瞑想トランス状態になろうなんて思わないでください。
たくさん考えて目を閉じて瞑想をしてもいいです。
無駄をたくさんして、それがいかに無駄だったかを悟ることが出来れば。
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【瞑想法の効果のすごさと大したことのなさの最新記事】
私岐阜県在住の54歳、男性です。最近になって瞑想の素晴らしさを知り、脳科学の分野など、色々な文献を調べ実践していますが、今一つ瞑想状態の実感が掴めなくて困惑している状況の所です。そんな折、瞑想関係でネットサーフィン(このネットサーフィンこそが瞑想とは正反対のベクトル、思考が思考を呼び起こし知りたいという煩悩の迷宮に入り込んで出られなくなっているので矛盾しているのですが)をしていると岩波英知先生のブログに辿り着きリンク先のこちらも知ることになりました。こちらのコラムを楽しく読ませて頂きました。2013年の7月で最後になっていますが、次回の更新はされるのでしょうか?