煩悩を捨てて生きる活力も捨てたらそれは悟りなのか
煩悩というものがあります。様々な欲に我々は打ち勝たなくてはいけないと言われています。
しかしそうでしょうか?
坊主の私が言うのもなんですが、あらゆる禁欲をして得られる境地はさほどないと思います。
坊主の私が言うのもなんですが、あらゆる禁欲をして得られる境地はさほどないと思います。
例えば、恋愛の相談をされたとしましょう。
恋愛経験が豊富で甘さも酸っぱさも様々なことを経験している人間のアドバイスのほうが、はるかに生きたアドバイスになるに違いありません。
観念の世界で生きる人間ほど薄っぺらいアドバイスをしてしまうのです。
最近、本能をないがしろにして生きている人が多くなっていると思います。

理性に縛られた人ほどストレスのはけ口を作れずとことん溜めやすい
話を煩悩と本能と理性の話に戻します。本能を抑える理性というものは必要でしょう。
そうでなければ、うまく社会は回っていかないのです。
そうでなければ、犯罪者だらけの怖い世界になってしまいます。
しかし、本人の心情としては、本能を大切に生きた人間のほうが生命の喜びを味わえることでしょう。
しかし、本能もありすぎると困ると同時に、理性もありすぎていたら、悩みばかりが増えていきます。
第三者的な視点から見たら、本能むき出しの人間が多い世の中と理性しかない人間では、後者のほうが多くいて欲しいと思います。
第三者的な視点から見たら、本能むき出しの人間が多い世の中と理性しかない人間では、後者のほうが多くいて欲しいと思います。
まさに喜びとは、本能と密接に関わったものなのです。
近頃感情が沸き立たないと思っている人は、どこかで本能を抑えすぎてしまったのかもしれません。
普通に生活していますと、理性で凝り固まっているなんて感じないものです。
そこで瞑想の出番です。
瞑想は理性を超えた素晴らしき世界に行くためのツールです。
理性との闘いに陥ってしまうことが圧倒的に多いのですが、可能性としては本能の世界にまで達することができるすばらしいものです。
しかし、坐禅を組み、己の内面に意識を集中させると、いかに理性は邪魔かわかります。
これほど邪魔なものはありません。
禅にしても瞑想にしても、己の本能との対話だと私は思っています。
つまりは理性肥大になっている証拠です。
しかし恐ろしいことに自覚がない場合が多いのです。
しかし恐ろしいことに自覚がない場合が多いのです。
瞑想を理性で捉えたら頭でっかちの瞑想オタクになるしかありません
そこで瞑想の出番です。
瞑想は理性を超えた素晴らしき世界に行くためのツールです。
理性との闘いに陥ってしまうことが圧倒的に多いのですが、可能性としては本能の世界にまで達することができるすばらしいものです。
これほど邪魔なものはありません。
本能に触れることができるからこそ、我々はいろいろな発見や気づき、そして悟りに到れるのです。
普段理性で蓋をしている己と対峙できるのです。
瞑想をある程度進めた人なら、その残酷さに直面するでしょう。
悟りとは、理性という己をそいでそいでそぎ落とした末に訪れるものだと思います。
何かを悟る時、理性や己といった自意識はとても邪魔なのです。
何かを悟る時、理性や己といった自意識はとても邪魔なのです。
やればやるほどジャマをするのは己です。
うるさい蚊やハエや近所の保育園ではありません。精神修行や瞑想でなぜ精神統一がなされにくくなる原因
深い瞑想状態に入る時、邪魔になるのは理性です。
理性によって状況判断をしたり、うまく瞑想状態に入ろうとしたり、そこに意図的な力が働いてしまいます。
理性によって状況判断をしたり、うまく瞑想状態に入ろうとしたり、そこに意図的な力が働いてしまいます。
そうなると、あらゆる努力が理性によって全て無駄になってしまうのです。
そういうお坊さんは多いと思います。
私もその経験があるため、理性がどれだけ無駄にしているか、そして本能を大切に生きることを学ぶことができました。
理性の壁を突破できない人はとても多いのです。
目を閉じて坐禅をして集中しているように外からは見えていても、その頭のなかは雑念と自意識だらけなのです。
目を閉じて坐禅をして集中しているように外からは見えていても、その頭のなかは雑念と自意識だらけなのです。
ほんとうに邪魔で邪魔でしょうがない。
座禅を組んで瞑想をするなら、まずは瞑想状態に入ることよりも、理性の無駄を悟ることが第一だと私は考えています。
最初は案外使わないものです。
というのも、まだまだ未知の世界だからこそ慣れていないがゆえ、理性を働かせないのです。最初は非日常空間を脳が新鮮に感じ理性を使わないけれど……
静寂の中でやる瞑想ほど、理性を使ってしまいます。
静寂の中でやる瞑想ほど、理性を使ってしまいます。
しかし、やればやるほど、効率よく瞑想状態に入ることを求めてしまいます。
求めてしまうとますます理性を使います。
そうなると、理想通りいかない時、理性がチェックをしてしまいます。
うまくいかない、どうすればいい? と知恵を働かせてしまい、雑念に取り憑かれます。
早く入ろうと意図が入り、結局理性を使ってしまうのです。
そんな人は理性を使わないからこそ、瞑想状態に入れたというのに、下手にその感覚を味わってしまったがために、理性を使い出してしまう矛盾が起きます。
この知恵が働くと、まず瞑想状態の入り口にもたどり着けません。
深い瞑想状態に入りたい欲が浅くしてしまう原因です
また深い瞑想状態、変性意識状態を経験すると、今度はまた入りたいという欲が出ます。そして焦ります。
うまくいったことが急にうまく進まなくなったからです。
またまた焦ります。
そのときに、ふっと体の力を抜いて諦めてしまえば、新たな展開が待っているのですが、人間はどこまでも知恵を使って切り抜けようとしてしまうのです。
だから、何をやってもうまくいかない人は、理性の無駄をまずは悟ってください。
それを使ってうまくいかなかったことを思い出してください。
そうすれば、自ずと己の進むべき道は定まるはずです。
普段から本能を大切にする生き方も必要です。
心にストレスが溜まり続ける生き方を変えられないと、苦しい時期がずっと続いていって、幸せな感情が消え失せてしまいます。
本能はむき出しではいけないけれど、抑えこむ一方だけではダメです。
心のバランスが崩れます。
坊主の私がその結論に至ったのも、どれだけ理性が感情の灯火を消してしまうか気づけたからです。
調和とは理性と本能のバランスが取れた状態であり、その時が一番心が安定するのです。
瞑想の目的の一つに、心の調和と安定というものがあります。
迷うのも理性を使ってああでもない、こうでもないとぶれるからです。
理性を使えば使うほどドシッと心は構えることができなくなります。
それが迷いとなり悩みとなり、ますます心の調和が図れなくなるのです。
精神修行を行うすべての人にとって、これは共通していることだと思います。
座禅、瞑想にかぎらず、岩波先生のプログラムのトランス呼吸法をやるときにも当てはまることです。
もう少し理性の役割を減らして、己の本能を大切にする生き方をするのはどうでしょうか。
また知恵を使って状況判断しようとします。
だからこそ、十年以上位瞑想や座禅や精神修行をやっても、ある時からうまく行かなくなってしまうのです。
だからこそ、十年以上位瞑想や座禅や精神修行をやっても、ある時からうまく行かなくなってしまうのです。
うまくいかせようとする心がうまくいかない理由です
そのときに、ふっと体の力を抜いて諦めてしまえば、新たな展開が待っているのですが、人間はどこまでも知恵を使って切り抜けようとしてしまうのです。
それを使ってうまくいかなかったことを思い出してください。
そうすれば、自ずと己の進むべき道は定まるはずです。
普段から本能を大切にする生き方も必要です。
むき出しにするのではなく「大切にする」のです(念を押しておきます)
本能と理性のバランス
本能はむき出しではいけないけれど、抑えこむ一方だけではダメです。
心のバランスが崩れます。
坊主の私がその結論に至ったのも、どれだけ理性が感情の灯火を消してしまうか気づけたからです。
瞑想の目的の一つに、心の調和と安定というものがあります。
理性を使えば使うほどドシッと心は構えることができなくなります。
それが迷いとなり悩みとなり、ますます心の調和が図れなくなるのです。
精神修行を行うすべての人にとって、これは共通していることだと思います。
あらゆることに共通していること
よっぽど楽しく毎日ハリがある毎日が待っているでしょう。
私のことを最後に言えば、私が理性で押さえ込んでいた本能の力を解放できてからは、毎日が楽しくなりました。
何をしても過去の楽しさの二倍は楽しめるようになっています。
感受性がいい方向に広がってくれたのだと思います。
それも脳覚醒プログラムの覚醒瞑想トランスを存分に全身で体感し、本能を覆う蓋をあけることができたからだと思います。
解放しましょう、自由になりましょう。
何をしても過去の楽しさの二倍は楽しめるようになっています。
感受性がいい方向に広がってくれたのだと思います。
それも脳覚醒プログラムの覚醒瞑想トランスを存分に全身で体感し、本能を覆う蓋をあけることができたからだと思います。
本物の瞑想にはその威力があります。

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